我が信念

 

 

二。我が信念

 

 

 

 

 

私は常々信念とか如来とか云うことを口にしていますが、その私の信念とは如何なるものであるか、私の信ずる如来とは如何なるものであるか、いま少しくこれを開陳しようと思います。

 

私の信念とは、申す迄もなく、私が如来を信ずる心の有様を申すのであるが、それに就いて、信ずると云うことと如来ということと、二つの事柄があります。この二つの事柄は、丸で別々のことの様にもありますが、私にありてはそうではなくして、二つの事柄が全く一つのことであります。私の信念とはどんなことであるか、如来を信ずることである。私の云う所の如来とはどんなものであるか、私の信ずる所の本体である。分けて云えば、能信と所信との別があるとでも申しましょうか、すなわち、私の能信は信念でありて私の所信は如来である、と申して置きましょう。あるいはこれを、信ずる機と信ぜらるる法との区別である、と申してもよろしい。しかし、能所だの機法だのと云う様な名目をかつぎ出すと、かえって分ることが分らなくなる恐れがあるから、そんなことは一切省いて置きます。

 

私が信ずるとはどんなことか、なぜそんなことをするのであるか、それにはどんな效能があるか、と云う様な色々の点があります。まずその効能を第一に申せばこれを信ずると云うことには、私の煩悶苦悩が払い去らるる效能がある。あるいはこれを救済的效能と申しましょうか。とにかく、私が種々の刺激やら事情やらのために煩悶苦悩する場合に、この信念が心に現れ来る時は、私はたちまちにして安楽と平穏とを得る様になる。その模様はどうと云えば、私の信念が現れ来る時は、その信念が心一ぱいになりて、他の妄想妄念の立ち場を失わしむることである。如何なる刺激や事情が侵して来ても、信念が現在して居る時には、その刺激や事情がちっとも煩悶苦悩を惹起することを得ないのである。私の如き感じやすきもの、特に病気にて感情が過敏になりて居るものは、この信念と云うものがなかったならば、非常たる煩悶苦悩を免れぬことと思われる。健康人にても苦悩の多き人には、ぜひこの信念が必要であると思う。私が宗教的にありがたいと申すことがあるが、それは信念のためにこの如く現実に煩悶苦悩が払い去らるるの、よろこびを申すのである。

 

第二。なぜそんな如来を信ずると云う様なことをするのか、と云うについては前に陳ぶるが如き効能があるから、と云うてもよろしいが、なおそれより外の訳合があるのである。効能があるからと云うのは、すでに信じたる後の話である。まだ信ぜざる前には、効能があるかなきかは分らぬことである。もちろん、人の効能があると云う言葉を聞いて、信ぜられぬ訳でもないが、人の言葉を聞いただけでは、そうでもあろう位のことが多い。真に效能があるか無いかと云うことは、自分に実験したる上の話である。私が如来を信ずるのは、その效能によりて信ずるのみではない、その外に大なる根拠があることである。それはどうかと云うに、私が如来を信ずるのは、私の知恵の窮極であるのである。人生の事に真面目でなかりし間は、おいて云わず、少しく真面目になり来りてからは、どうも人生の意義について研究せずには居られないことになり、その研究がついに人生の意義は不可解であると云う所に到達して、ここに如来を信ずると云うことを惹起したのであります。信念を得るには、強ちこの如き研究を要するわけでないからして、私がこの如き順序を経たのは、偶然のことではないか、と云う様な疑いもありそうであるが、私の信念はそうではなく、こ順序を経るのが必要であったのであります。私の信念には、私が一切のことについて私の自力の無効なることを信ずる、と云う点があります。この自力の無効なることを信ずるには、私の知恵や思案の有り丈を尽くして、その頭を挙げようのない様になる、と云うことが必要である。これが甚だ骨の折れた仕事でありました。その窮極の達せらるる前にも随分、宗教的信念はこんなものである、と云う様な決着は時々出来ましたが、それが後から後から打ち壊されてしもうたことが、幾度もありました。理論や研究で宗教を建立しようと思って居る間は、この難を免れませぬ。何が善だやら悪だやら、何が真理だやら非真理だやら、何が幸福だやら不幸だやら、一つも分るものでない。我には何にも分らないとなったところで、一切の事を挙げて、ことごとくこれを如来に信頼する、と云うことになったのが、私の信念の大要点であります。

 

第三。私の信念はどんなものであるかと申せば、如来を信ずることである。その如来は、私の信ずることの出来る、また信ぜざるを得ざる所の、本体である。私の信ずることの出来る如来と云うのは、私の自力は何等の能力もないもの、自ら独立する能力のないもの、その無能の私をして私たらしむる、能力の根本本体が、すなわち如来である。私は、何が善だやら何が悪だやら、何が真理だやら何が非真理だやら、何が幸福だやら何が不幸だやら、何も知り分ける能力のない私、隨って、善だの悪だの、真理だの非真理だの、幸福だの不幸だの、と云うことのある世界には、左へも右へも、前へも後へも、どちらへも身動き一寸することを得ぬ私、この私をして、虚心平気に、この世界に生死することを得しむる、能力の根本本体がすなわち私の信ずる如来である。私はこの如来を信ぜずしては、生きても居られず、死んで往くことも出来ぬ。私はこの如来を信ぜずしては居られない。この如来は、私が信ぜざるを得ざる所の如来である。

 

私の信念は大略この如きものである。第一の点より云えば、如来は私に対する無限の慈悲である。第二の点より云えば、如来は私に対する無限の知恵である。第三の点より云えば、如来は私に対する無限の能力である、かくして私の信念は無限の慈悲と無限の知恵と無限の能力との実在を信ずるのである。無限の慈悲なるがゆえに、信念の確定のその時より、如来は私をして直に平穏と安楽とを得しめたまう。私の信ずる如来は、来世を待たず現世において、すでに大なる幸福を私に与えへたまう。私は他の事によりて多少の幸福を得られないことはない、けれども、如何なる幸福もこの信念の幸福に勝るものはない。ゆえに、信念の幸福は、私の現世における最大幸福である。これは、私が毎日毎夜に実験しつつある所の幸福である。来世の幸福のことは、私はまだ実験しないことであるから、ここに陳ぶることは出来ぬ。

 

次に、如来は無限の知恵であるがゆえに、常に私を照護して、邪智邪見の迷妄を脱せしめ給う。従来の慣習によりて、私は知らず識らず、研究だの考究だのと、色々無用の論議に陥りやすい。時には、有限粗雑の思弁によりて無限大悲の実在を論定せん、と企つることすら起る。しかれども、信念の確立せる幸には、たとえ暫くこの如き迷妄に陥ることあるも、またたやすくその無謀なることを反省して、この如き論議を抛擲することである。「知らざるを知らずとせよ、是れ知れるなり」とは実に人智の絶頂である。しかるに、我等は容易にこれに安住することが出来ぬ。私の如きは、実におこがましき意見を抱いたことがありました。しかるに、信念の幸恵により、今は「愚痴の法然房」とか、「愚禿の親鸞」とか云う御言葉を、ありがたく喜ぶことが出来、また自分も真に無智を以て甘んずることが出来ることである。私も以前には、有限である不完全であると云いながら、その有限不完全なる人智を以て、完全なる標準や無限なる実在を研究せんとする、迷妄を脱却し難いことであった。私も以前には、真理の標準や善悪の標準が解らなくなっては、天地も崩れ社会も治まらぬ様に思うたことであるが、今は、真理の標準や善悪の標準が人智で定まる筈がない、と決着して居ります。

 

さてまた、如来は無限の能力であるが故に。信念によりて大なる能力を私に賦与し給う。私等は通常、自分の思案や分別によりて進退応対を決行することであるが少し複雑なことになると、思案や分別が容易に定まらぬ様になる。それがために、段々研究とか考察とか云うことをする様になると、而して前に云うが如き標準とか実在とか云う様なことを求むることになりて見ると、行為の決着が次第にむつかしくなり、何をどうすべきであるやら、ほとんど困却の外はない様なことになる。言葉を慎まねばならぬ、行を正しくせねばならぬ、法律を犯してはならぬ、道徳を壊りてはならぬ、礼儀に違うてはならぬ、作法を乱してはならぬ、自己に対する義務、他人に対する義務、家庭における義務、社会における義務、親に対する義務、君に対する義務、夫に対する義務、妻に対する義務、兄弟に対する義務、朋友に対する義務、善人に対する義務、悪人に対する義務、長者に対する義務、幼者に対する義務等、いわゆる人倫道徳の教えより出づる所の義務のみにても、これを実行することは決して容易のことでない。もし真面目にこれを遂行せんとせば、終に「不可能」の嘆に帰するより外なきことである。私はこの「不可能」に衝きあたりて、非常なる苦しみを致しました。もしこの如き「不可能」のことのためにどこ迄も苦しまねばならぬならば、私はとっくに自殺を遂げたでありましょう。しかるに、私は宗教によりてこの苦しみを脱し、今に自殺の必要を感じませぬ。すなわち、私は無限大悲の如来を信ずることによりて、今日の安楽と平穏とを得て居ることであります。

 

無限大悲の如来は、如何にして私にこの平安を得しめたまうか。外ではない、一切の責任を引き受けて下さるることによりて、私を救済したまうことである。如何なる罪悪も、如来の前には毫も限りにはならぬことである。私は善悪邪正の何たるを弁ずるの必要はない。何事でも、私はただ自分の気の向う所、心の欲する所に順従(したが)うて、これを行うて差し支えはない。その行が過失であろうと、罪悪であろうと、少しも懸念することはいらない。如来は、私の一切の行為について、責任を負うて下さるることである。私は、ただこの如来を信ずるのみにて、常に平安に住することが出来る。如来の能力は無限である。如来の能力は無上である。如来の能力は一切の場合に偏満してある。如来の能力は十方にわたりて、自由自在、無障無碍に活動し給う。私は、この如来の威神力に寄托して、大安楽と大平穏とを得ることである。私は、私の死生の大事をこの如来に寄托して、少しも不安や不平を感ずることがない。「死生命あり。富貴天にあり」と云うことがある。私の信ずる如来は、この天と命との根本本体である。

 

(明治三十六年夏、先生三河国大浜町西方寺にあり、自ら筆を執りて、この一篇を草し、後数日を出でずして、病俄に革まり、六月六日午前一時、溘然として寂せらる。然れば此一篇は正に先生の絶筆なり。同年六月十日発行『精神界』所載)