企画展

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◆ 展示案内

 

    2017年度企画展
清澤満之と近角常観
会期:2017年3月3日〜2018年2月25日
明治時代の仏教にとって、浄土真宗の教え、および教団は、思想的・文化的・社会的な面で大きな存在であった。その中でも、清澤満之と近角常観(ちかずみ・じょうかん)の果たした役割は大きかった。
 満之が弟子たちと浩々洞(こうこうどう)をひらき共同生活をしながら仏法を学んだ場所は、その前に常観が宿舎(後の求道学舎)としていた場所であり、常観が欧米視察に出かけた後に満之らが入った場所である。
 ところがその近角常観についてはこれまであまり取り上げられることがなかった。そして近年、常観についての研究が進み注目されるに従い、満之と常観の接点と共に、両者の共通する部分と、異なる部分とが課題となっている。今回の展示では、特に二人の出会いと共通する部分を見ながら、近代日本において仏教の果たした役割を見ていきたいと思う。
T、近角常観とはどんな人?
 清澤満之と近角常観。明治時代を生きた念仏者を代表する二人だが、これまで近角常観についてはそれほど知られていない。近角常
1. 近角常観(ちかずみ・じょうかん)
 ※写真は近角よう子『求道学舎再生』〈学芸出版舎〉より転載
 真宗大谷派の僧。1870(明治3)〜1941(昭和16)年。滋賀県の真宗大谷派の西源寺の長男として誕生。京都府尋常中学に入学し、東本願寺の留学生として、東京へ留学。第一高等学校をへて、東京帝国大学に入学。宗教哲学を専攻。
 満之を中心とする宗門改革運動に参加。この運動の人間関係のもつれによる煩悶の中、体調を崩す。そしてこの時宗教的回心を体験する。
 この後、明治政府が推し進めようとする宗教法案に反対する運動を展開し、廃案にもちこむ。この運動を、高く評価した本山は、本郷の土地を提供。これが後の求道学舎となる。そして常観は、欧米の宗教事情を視察するために、二年間の洋行に出かけた。そしてこの留守を預かる形で、清澤満之と弟子達が、浩々洞を開き、『精神界』を発行する。
常観は洋行から帰ると、求道学舎を開き、「日曜講話」を開始。また雑誌『求道』を発行。後に「句仏事件」において、句仏上人を擁護する運動を展開。この時、僧籍が削除された(後に復帰)。
2. 求道会館
 近角常観が拠点とした建物。現住所は、東京都文京区本郷6丁目20番5号。かつては森川町と呼ばれた。欧米の宗教事情を視察してきた常観の注文により、教会建築を基本としながら、所々に日本の社寺建築のモチーフが用いられている。近代建築を代表する武田五一が設計を手がける。1915年(大正4)に落成し、ここで常観は説教し多くの聴聞者を集める。常観が亡くなった後、長く閉鎖されていたが、1994年に東京都の有形文化財に指定され、1996年から6年間修復工事が行われ、2002年にオープンした。

3. 『人生と信仰他』(求道会館復興記念)
 半世紀の間、閉鎖状態にあった求道会館が6年の歳月をかけた文化財修復工事により復興したのを記念して、近角常観の著作の中から、『信仰之余瀝』『懺悔録』『人生と信仰』の3冊が復刻された。現代の人々にも読みやすいように、漢字をひらがなにし、ふりがなが加えられている。

 

U、東京大学
 近角常観は、1889年(明治22)7月に、東本願寺から東京大学へ内地留学している。同じ経験(明治16年)を持つ清澤満之が、その制度を復活させたことによって実現した。常観は、さまざまな講義を受けるなかで宗教哲学を専攻し、その後、哲学館(今の東洋大学)でも、宗教哲学を教えている。
1.近角常観の在籍名簿
 哲学科の第一年に近角常観の名前が見える。同級生には、朝永三十郎(1871〜1951 哲学者。物理学者でノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎の父)がいる。
                               「東京帝国大学一覧(明治28-29年)」
2.近角常観が受講した講義
 井上哲次郎から哲学の講義をうけている。また常観に大きな影響を与えた講義として、元良勇次郎の心理学がある。そして清澤満之も講義を受けた、史学の坪井九馬三の名前もみえる。                   「東京帝国大学一覧 (明治28-29年)」
3. 満之・東大受講ノート 「フランス史」
 満之が東大時代に受講したフランス史のノート。講師は坪井九馬三。
4. "THE STUDENT'S HISTORY OF FRANCE"
 清澤満之が東京大学時代に使用したと思われるテキスト。
 1886年(明治19)、ニューヨークで発行されている。
 徳永満之(M.Tokunaga)の自著がある。
 近角常観が東京大学に入学(明治28年)したのは、清澤満之が入学した年(明治16)より12年後になるが、歴史学を担当した坪井九馬三は、二人に共通した講義となっている。
V、宗門改革運動
 清澤満之は、同志6人とともに、『教界時言』(1896年〈明治29〉10月〜1898年〈明治31〉3月)を発行するなどして、東本願寺の改革の必要性を訴えた。

 この運動は各地に広がり、28,000余名の請願書を集めるほどであった。その中で、満之らの運動に呼応した東京在住の改革派(「東京連」)の中の一人に近角常観がいた。

 

1. 「大谷派事務革新委員及有志者撮影」(写真・複製)
 宗門改革運動時に撮影された写真。教団改革運動の最中、1897年(明治30)2月に、大谷派事務革新全国同盟会が、僧俗300余名を集め、京都河原町の共楽館で発会式を行っているが、そのころに撮影されたと思われる。撮影場所は知恩院前。この写真の中の近角常観が見える。
2. 『教界時言』
 真宗大谷派(東本願寺)の改革運動時に、清沢満之を中心とする改革派・白川党から出された機関誌。1896年(明治29)から1898年(明治31)にかけて全17号を刊行し、改革の必要を訴えた。
3.近角常観「宗教家の本領」
  『教界時言』第14号(明治30年12月29日発行)掲載。
 常観は、京都での改革運動に参加する中で、深刻な煩悶を経験し、また病気を患う中で、決定的回心を経験する。この文章は、その後に書かれたと思われる。
 宗教家は、一度は山にこもることはあっても、社会に出て、その本領を発揮すべきであるとしている。活きた人を救うのは活きた信仰によるものであり、活きた信仰は、活きた絶対の働きによるとしている。常観の信仰的体験から生まれた文章をここに見ることができる。
W、求道学舎
 近角常観は、明治政府が推し進めようとした宗教法案(キリスト教と仏教を同等に統括する法案)に反対する運動の先頭に立ち、法案通過を阻止した。その功績が認められ、現在の求道会館の土地を大谷派から与えられた。さらに欧米の宗教事情を視察すること
になり、その留守を預かる形で、清澤満之が浩々洞を開いている。常観は欧米視察から帰ったあと、その場所に求道学舎を開き、活動の拠点としたのである。
1. 『政教時報』
 近角常観が「総務員」として関わった「大日本仏教徒同盟会」が発行した機関誌。1899年1月の第1号から1903年12月の第107号まで、ほぼ毎月2回刊行された。常観はこの雑誌を通して、宗教法案反対運動を展開した。運動が盛んだった時には、55,000部を印刷して各方面に配布した。
 清澤満之は、この雑誌の中で、「真の朋友」と題する文章を掲載している。
2. 『信仰之余瀝』
 『政教時報』には、常観自身の信仰を告白する信仰欄があり、そこで連載された文章が、「信仰之余瀝」として本となった。ここには清澤満之らの助力があり、満之も序文を寄せている。この本の最初には「宗教的同朋」と題する文章があり、仏陀がその友人(同朋)であると、常観の信仰が告白されている。

3.雑誌『求道』の表紙画
 1915年(大正5)に求道会館が建てられるが、その設計を手がけたのが、武田五一である。またその時に、近角常観が発行していた雑誌が『求道』である(1904年〜1922年)。この『求道』の第2巻の表紙画から武田五一に依頼されている。仏像、仏教的な文様が用いられている。題字は常観。                「武田五一の軌跡」〈文京ふるさと歴史館〉

 

X、浩々洞と『精神界』
 清澤満之は1900年(明治33)に東京にいくことになり、常観が欧米視察に出かけた留守を預かる形でその宿舎に入り、弟子との共同生活が始まった。そこは浩々洞(こうこうどう)と名付けられた。「浩々」とは、水が広くみなぎり、見渡す限り水平線というような広大な様子を意味している。多くの人がここに集まり、そして多くの議論をかわしたといわれている。それは「古代の僧伽」と思わせるような空間を思わせるものだったという。またここから雑誌『精神界』が発行された。

 

1. 雑誌『精神界』
 浩々洞から明治34年1月に創刊された仏教雑誌。雑誌発行に際しては高浜虚子に相談し、体裁等は三宅雪嶺の『日本人』にならったとされる。洞人がそれぞれ編集、会計等を担当した。この雑誌を通して、満之は「精神主義」を提唱する。

 

 

2. 近角常観「宗教に関する欧州最近の思潮と我国現時の言論」(『精神界』掲載) 常観は、宗教事情の視察のために、欧米を回った後、日本に帰ってきた(明治35年3月)。清澤満之らは、常観の欧米視察の留守を守る形で、浩々洞を開いていたので、常観の帰国を受けて、浩々洞を引っ越している(森川町から東片町へ)。
 常観は、帰国後、求道学舎を開き(森川町)、満之等は浩々洞での活動を継続(東片町)し、『精神界』を発行している。その『精神界』に掲載された、常観の文章が、この一文である。
 欧米視察で知り得たことを示しながら、宗教的理論や世界観よりも、救済ということが大事であることを述べている。
3. 浩々洞の写真(明治35年5月21日撮影)
                       ※写真は『清澤満之の研究』〈教化研究所〉より転載
 常観の帰国を受けて、満之らは浩々洞を引っ越している(明治35年5月末日)。この写真は、5月21日に撮影されているので、その引っ越しの直前に撮影されたことがわかる。 また写っている人物を見ると、浩々洞の人たちと、常観を中心として、その後求道学舎を開く人たちの名前が見える。浩々洞と求道学舎の二つが一緒になって撮影された写真といえる。
4. 浩々洞の写真(明治35年11月4日撮影)
 東片町の浩々洞の写真。満之は、明治35年11月5日に浩々洞を離れ、西方寺に帰っているので(浩々洞の活動は継続)、その直前に撮影されている。痰壺を片手に前屈みに写っている満之の姿(前列右から二人目)が印象的である。
 浩々洞は満之を中心とするものであったが、その周りにいた弟子達の活動が大きかった。満之が抜ける浩々洞は新しい時代を迎えることになる。
5. 『精神講話』(明治35年11月10日発行)
 満之が浩々洞を離れ西方寺に帰った(11月5日)後に発行されたもので、それまで発表されてきた満之の代表的な文章が一冊にまとめられている。主に『精神界』の「精神講話」欄に掲載された文章、また常観らの発行による雑誌『政教時報』に掲載された文章(「至誠の心」等)がある。

 

Y、満之の死と近角常観
 明治36年6月6日に、満之は逝去した。7歳年上の満之は、40年に満たない人生を終えるが、常観はその後、1941年(昭和16)まで生きることになる(71年の生涯)。
 満之の死は、浩々洞にとっても、また常観にとっても大きな出来事であったといえるだろう。

 

1. 満之最後の写真(1903、明治36年2月)
 1903年(明治36)2月、本山の会議に出席するために訪れた時に撮影したと思われる写真。満之最晩年の写真。満之は、「私の仕事はこれで終わった」と語ったとされる。この写真には、満之の他に、稲葉昌丸と近角常観が写っている(もう一人は不明)。
2. 満之葬儀の写真(1903、明治36年6月)
 清澤満之は、明治36年6月6日に逝去。9日には西方寺で葬儀が執り行われた。
この写真は、そのときに撮影されたと思われるものである。中央に小さい子どもが写っているが、次男即往(6歳)でこの時の喪主となっている。向かって、その右に坐るのが清澤厳照、左が徳永永則である。
 この写真の最前列の一番右端に、近角常観が写っている。
3. 真宗大学のおける満之七回忌法要の記念写真(1909、明治42年6月)
 法要は三日間行われ、法要、感話、茶話会、記念講演会が行われた。一日目は真宗大学で行われ300名の参列があり、二日目は東京帝国大学で行われ350名、三日目は浅草本願寺で300名の参列があったとされる。その他、全国各地で、追想会、臘扇忌が行われている。
 二日目の帝国大学での講演会が終わった後、南条文雄他、40名ほどが森川町の求道学舎に集まった。満之が居住していた二階の仏間に集まり、南条の調声で『阿弥陀経』があがり、即往の焼香が行われた。その後南条、稲葉昌丸他が満之との思い出を語り合った。
 写真は、この七回忌の時に撮影されたものである。後列左から5番目に近角常観が写っている。
4. 満之七回忌の時の近角常観の講演
 七回忌の法要の三日目は、浅草別院で行われ、本堂で法要が勤まった。そして広間にて講演会が行われ、多田鼎による司会のもと、楠秀丸、近藤純悟、上杉文秀、近角常観、村上専精の講演会があった。また最後の閉会の挨拶を、佐々木月樵がしている。
 常観は、「清澤先生及び其信念」と題する講演をしている。この中で、常観は、人間関係に苦しむ中で宗教的信念に触れるという回心を体験し、それは満之の指導するところであった、と述懐している。