清澤満之年表
清澤満之年表
年次 | 西暦 | 年齢 | 事歴 | 社会・教団 |
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文久3 | 1863 | 1 | 名古屋黒門町に生まれる。父徳永永則、母タキ。幼名満之助。 | 翌1864には東本願寺両堂焼失(禁門の変) |
明治元 | 1868 | 6 | 明治維新。神仏分離令。 | |
4 | 1871 | 9 | 三河大浜騒動。 | |
5 | 1872 | 10 | 愛知県第五義校が開校し義校生となる。義校の廃止により第廿三番小学遷喬学校に転入学 | 一向宗の名を廃し、真宗の宗名公認される。 |
7 | 1874 | 12 | 愛知県外国語学校(愛知英語学校)に入学。 | 板垣退助ら、民選議院設立を建白。 |
10 | 1877 | 15 | 愛知英語学校廃校により愛知県医学校に入学するも退校。 | 西南の役始まる。東京大学開設。 |
11 | 1878 | 16 | 覚音寺衆徒として得度を受く、法名釈賢亮。東本願寺育英教校に入学。 | 仏教各宗派、肉食妻帯許される。 |
14 | 1881 | 19 | 東本願寺(宗門)から東京留学を命じられる。 | 西本願寺を本願寺派、東本願寺を大谷派と改称。 |
16 | 1883 | 21 | 予備門を卒業、東京大学文学部哲学科に入学。学内騒動に関係し、退学させられる。翌年再入学。 | 鹿鳴館開館式。 |
20 | 1887 | 25 | 文学部哲学科を卒業、大学院に入り、宗教哲学を専攻。哲学館(現東洋大学)創設に参加。 | |
21 | 1888 | 26 | 宗門の要請で京都府立尋常中学校長となる。真宗大学寮で哲学を講ずる。清澤やすと結婚し、愛知県三河大浜西方寺に入る。 | 東本願寺、京都府より京都府立尋常中学校の経営を委嘱される |
23 | 1890 | 28 | 校長の職を稲葉昌丸に託す。この頃より禁欲生活に入る。『歎異抄』等に親しむ。 | 教育勅語発布。第1回帝国議会開会。 |
24 | 1891 | 29 | 岡崎御学館主任となる。母タキ没す。禁欲生活ますます厳しくなる | 内村鑑三、教育勅語拝礼を拒み不敬事件起こる。濃尾地震。 |
25 | 1892 | 30 | 『宗教哲学骸骨』出版。ミニマム・ポッシブルを実験。 | 東本願寺本堂上棟式挙行。 |
26 | 1893 | 31 | シカゴ万国宗教大会において英訳『宗教哲学骸骨』好評を博す。 | 東本願寺、京都府尋常中学校を京都府に返還。 |
27 | 1894 | 32 | 結核と診断され、教職を辞し、兵庫県須磨・垂水に転地療養。 | 厳如上人没。日清戦争始まる。 |
28 | 1895 | 33 | 療養を引きあげ、宗門に対し寺務改正の建言書を提出。この頃から清澤姓を称す。 | 日清講和条約調印。東本願寺両堂落成。 |
29 | 1896 | 34 | 京都白川村に篭居。『教界時言』を発刊し、宗門改革を唱える。 | 東本願寺、第1回議制局会議を開催。 |
30 | 1897 | 35 | 大谷派革新全国同盟会結成。運動の主唱者として除名処分を受ける。「阿含経」に親しむ。 | 足尾鉱山鉱毒事件起こる。日本主義および社会主義の思潮盛ん。 |
31 | 1898 | 36 | 『教界時言』廃刊。除名処分解かれる。家族とともに大浜西方寺に入る。「臘扇記」起稿。英文『エピクテタス語録』を読む。絶対他力の信念を確立する。 | 蓮如上人四百回忌法要。 |
32 | 1899 | 37 | 新法主(新門)彰如の招命により上京、以後彰如の補導の任に当たる。「有限無限録」その他を執筆。 | 仏教清徒同志会による新仏教運動展開。 |
33 | 1900 | 38 | 門下生らと浩々洞にて共同生活をはじめる。 | 仏教清徒同志会『新仏教』を創刊。 |
34 | 1901 | 39 | 浩々洞より『精神界』創刊。以後、精神主義関係の論文を多数執筆。京都にあった真宗大学を東京巣鴨に移転開校する。 | 福沢諭吉没。東本願寺、御真影遷座三百年記念法要。 |
35 | 1902 | 40 | 真宗大学の紛争の責を負って学監を辞す。長男信一・妻やす没。大浜西方寺に帰る。「絶対他力の大道」など発表。 | 日英同盟。正岡子規没。 |
36 | 1903 | 41 | 大谷本廟参詣。三男広済没。「我が信念」脱稿。6月6日没す、法名信力院釈現誠。 | 藤村操、華厳滝投身自殺。内村鑑三、日露戦争反対を主張する。 |