清澤満之記念館

企画展


展示目録・解説

2013年度企画展  

清沢満之生誕150周年

開催にあたって

 清沢満之は、1863年(文久3)に名古屋の黒門町に生まれた。幕末から明治にかけての激動の日本に生まれ、1903年(明治36)、日露戦争の直前に亡くなっている。

 満之が生まれて本年(2013)は、150年の年を迎える。満之がこの世に生まれて、生涯をかけて明らかにした真理が、今の私たちにとってどんな意義を持っているのか、その呼びかけを聞きたいと思います。

 今回の企画展では、満之がこの世に生を受けた名古屋にスポットを当てながら、満之がどのような時代社会の中で生まれたのかについて、現存する資料を紹介しながら、確かめていきたいと思います。

会期:2013年3月1日(金)?2013年2月23日(日)  

T.生誕地・名古屋

 満之は、現在の名古屋市黒門町に、父徳永永則、母タキの長男として誕生した。幼名は徳永満之助といった(後、西方寺に入り清沢姓となる)。父は、旧尾張藩の足軽頭だったが、明治に入り武士身分が廃止されたため、茶の行商をしながら家族を養うという大変貧しい生活を送ったとされる。

○満之の生誕地

 満之は1863年(文久3)に名古屋で生まれているが、それは現在の東区黒門町81になる。現在では満之の誕生地を案内した案内板が立っている。徳永家は、1863年から、1878年(明治11)にいたるまで、1キロに満たない範囲内に、三箇所に渉って場所を移動している。そこには徳永家の貧困生活が背景にあると思われる。因みに誕生地は、当時、尾張藩の組屋敷の地であり、同心(足軽)などの下級士族が住む地域であるとことが考えられている。

○家族の写真

撮影時期は不明。正面に満之が写っている。後列右から父・永則、母・タキ、満之の右は鐘となる。兄弟は四人いたとされ、満之は長男で、鐘は次女として生まれた。満之が亡くなるとき鐘が最後を看取っている。

○崇覚寺(手次寺)の写真

徳永家の手次寺。現在の名古屋東別院の西隣にある(名古屋市中区橘)。因みに徳永家の墓は崇覚寺にあったが、昭和20年代後半に平和公園(名古屋市千種区)に移転した。

U.私塾時代

満之の幼少時代は、社会が大きく変わろうとしていた時代であり、学校制度も次々と変化していた。そのような時、英語学校や医学校等といった、新しい学問を学ぶ学校ができると、満之の父親(永則)は、満之に積極的に学ばせようとした。しかし下級士族で貧困な生活をしていたこともあり、充分な学問をつむことが出来なかった。満之はこの後、お金がなくても学ぶことができる東本願寺の学校(育英教校)にいくことになり京都へ向かうことになる。

○第五義校(情妙寺)

熱心な日蓮宗の信者だった渡辺圭一郎氏から、満之は算術、習字を学んだ。その後、情妙寺(日蓮宗、筒井町)にあった「義校」(後の筒井小学校)で読書等を学んでいる。

○筒井小学校

1872年(明治5)の第五仮義校創立にさかのぼる。学区内情妙寺にあった寺子屋が学校に発展。現在地(名古屋市東区筒井)には、1880年(明治13)に移転し名古屋第十五番小学筒井学校と改称されている。満之は1872年、数えで10歳の時に義校生となっている。

満之と親しかった小川空恵の追憶文によると、満之は寡言沈黙の性格で成績は首位を占めていたとされる。

○清沢満之師碑

1952年(昭和27)、満之の50回忌を記念して、筒井小学校南門横に立てられた碑。碑の上方には「清澤満之碑」「須く自己を省察すべし 大道を見知すべし 遺弟敏書」とある(「敏」とは暁烏敏のこと)。また下方には小早川秋声による肖像画が線描刻されている。

○愛知外国語学校

1874年(明治7)年3月設立。1870年(明治3)6月設立の尾張藩藩校「洋学校」を源流とし、1872年(明治5)にはこれが県に移管されて愛知県洋学校と改称、翌1873年(明治6)には「成美学校」と改称されたが、1874年9月廃校となり外国語学校に吸収された。1874年12月愛知英語学校と改称された。現在の県立旭丘高校。満之は1874年、数えで12歳の時に入学している。

数多くの同窓生がいる中で、坪内逍遙と三宅雪嶺がよく知られている。坪内は、日本近代文学の創始者であり、また三宅は雑誌『日本人』を創刊し、近代ジャーナリズムを代表する人物である。

○“CORNELL’S GEOGRAPHY”

   (「コルネル氏大地理書」

愛知外国語学校の教科書。当時の学校の資料にあるもので記念館に収蔵されている。またここには蔵書印がある。英語で書かれた地理の教科書。その他同種の書籍が確認されている。

○医学校

愛知外国語学校が1877年(明治10)に廃校になると、西本願寺の別院に建てられていた医学校(現在の名古屋大学医学部)に入学する(数えで15歳)。当時はまだ規則等が整備されておらず、授業は休止状態だったようである。当時の満之は、外国人教師の指導の下、大変優秀だったとされている。また父が、成績優秀な満之を医者にさせようとしていたとも言われている。

○覚音寺

満之は、数えで16歳の時に、覚音寺(名古屋市東区新出来)の衆徒として得度する。そこは母タキが聞法に通った寺であり、母の求道の縁が満之の歩みを促したといえる。困窮する生活の中、お金がなくても学ぶことができるという東本願寺の学校(育英教校)にいくことになり、得度を受けることになった。

V.生誕50周年と生誕100周年

満之は1863年(文久3)年に生まれ、1903年(明治36)に亡くなっているので、ほぼ四十年の短い生涯であった。したがって満之誕生の50年は、没後10周年にもなり、それぞれの記念の年に満之の誕生した意義をたたえる行事が行われた。

○満之誕生50年と『清沢満之全集』

満之誕生の50年目、そして没後10年目の年になる1913年(大正2)に刊行された、最初の『清沢満之全集』。浩々洞の出版部である無我山房から発行されている。

○満之誕生100周年

1963年(昭和38)は、満之誕生の100周年に当たる年である。この年に発行された『親鸞教学』第3号には、曽我量深、金子大榮、鈴木大拙がそれぞれ講演したものが記録として掲載されている。

『清澤満之文集』(大谷大学発行)

満之誕生100年目にあたる昭和38年6月に、大谷大学から発行された文集。

W.満之の遺品、手紙

○遺品の輪袈裟と念珠

満之自身が使っていたとされる念珠。本当の僧侶とは何という問いと向き合いながら、満之は行者生活を実践していた。

○煙草入れ

 満之は東京大学を卒業後、京都府立尋常中学校の校長となっている。当時の東大出の文学士の風情と違わず、満之も、とてもハイカラで、山高帽をかぶり洋服も何着も取りそろえ、煙草もくゆらせていたと言われている。煙草に関しては、満之はその後、止めている。展示品は、満之が使用していたであろうと思われる煙草入れである。

○満之の手紙(新発見)

 この度西方寺内から発見された満之直筆の書簡4通の内の1通。明治22年7月23日の消印がある。満之は明治21年8月7日に、西方寺の清沢やすと結婚しているが、本資料は、やす(「屋寿」)に宛てた手紙である(封筒には「厳照殿内へ」とあるが、書状の最後には「屋寿どの」とある)。明治22年の満之はすでに京都の尋常中学の校長を務めていたが、何らかの事情で東京に出向いており、東京から発信されている。

手紙は7月19日に名古屋を出て、東京新橋に20日に着いたこと、その後、妹婿の松宮氏に会い、東京大学の寄宿舎にいる稲葉昌丸に会ったこと、そして下谷御徒町にある山下館に泊まったことが記されている。手紙はこの宿屋から発信されている。

翌21日には親友の沢柳政太郎に会い、半日ほど歓談したとある。その後沢柳と共に、岡田良平、上田万年をたずね、最後に井上円了を訪ね、夜の八時半頃まで話しをしたとある。

そしてやすに対しては、「不自由の身」として身体を気遣う内容が出ている。同年12月には二人にとって第一子となる長女みちが生まれているので、妊婦のやすを気遣ったものと思われる。

最後は、西方寺に帰る時期について書かれており、手紙は終わっている。手紙が朱色で書かれているが、どのような心情、事情が背景にあるのかについては、今後、検討していきたい。