清澤満之記念館

 ◆ 展示案内

     企画展:『清澤満之記念と京都』 

        会期:平成24年3月28日(金)〜平成25年3月1日(日)

            

 二〇一四年度企画展

 清澤満之と京都

 この度の企画展では、「清澤満之と京都」ということで、満之が東本願寺の僧侶として生きる中で、満之が活躍した京都は、どのような時代であり、満之にとってどのような意義を持っているのかを見ていきたいと思います。

満之は、十六歳(数え)の時に、京都の東本願寺で開校された育英教校に入学し、僧侶として勉学にいそしみます。その後、東京大学で宗教哲学を学んだ後、二十六歳の時に、本山の依頼を受けて、京都府尋常中学校の校長として京都に赴きます。
この京都赴任は、満之の生涯の中で、自らの人生を左右する大きな決断だったと言えます。その後の満之は、僧侶の自覚、僧侶としての生きた方とは何かを、自らに問い、また東本願寺の宗門に問いかけるようにして、生きることになります。
具体的には真宗大学寮での講義(宗教哲学など)、また行者生活の実践、そして宗門改革運動に見ることができます。
当記念館に残されている京都時代の資料を展示しながら、満之がどのような課題を持ちながら生きたのか、またどのような生活を送ったのかを見ていきたいと思います。

T、育英教校時代

新しい時代を迎え、東本願寺は全国の僧侶、門徒を育てる新しい学校制度として育英教校を作り、そこに満之は入学する。小川空恵、空順(満之の友)らの他、竜華空音の勧めがあり、僧侶となり、入学した。一八七八年(明治一一)〜一八八一年(明治一四)の四年の間、学んだ。

U、京都府尋常中学校教員時代

一八八七年(明治二〇)、京都府が財政難のため廃校を検討していた京都府尋常中学校の運営を、当時の北垣国道府知事が東本願寺に依頼をしたところ、学校長を東本願寺から指定すること等を条件に引き受けることにした。当時東京大学にいた満之は、その学校長として、京都に赴任することになった。

V.行者生活時代

学校長として教育に携わりながら満之は、当時の東本願寺、そして僧侶の姿にも目を配っていた。そして教団、僧侶の姿(宗風、僧風)をなげくこととなり、自分自身から、行者生活の実践(実験)をおこなっていった。しだいにやせ細る姿は、まさに「骸骨」そのものだった。その中で、教団改革の必要性を感じながら、また同時に、真理の骨格(「骸骨」)を『宗教哲学骸骨』として著していった。

W、宗門改革運動時代

幕末維新の災禍で、東本願寺の両堂(御影堂、阿弥陀堂)が焼失した。そして三十年あまりにわたってようやくその落成を迎えることとなった。その中にあって、真宗の教え(教学)が衰えていく姿を見ながら、満之は教団改革の必要性を、同志と共に唱え、運動を展開。全国からその意志に賛同する人が集まり、大きな運動となった。

W、追憶文(近角常観の回想)

先生の生涯はあてにならぬことの実現である。学問もあてにならぬ、宗門もあてにならぬ、妻子もあてにならぬ、我が身もあてにならぬ、何もかもあてにならぬ。『我が信念』の「死生命あり、富貴天にあり」と申されたのがこれである。親鸞聖人が『御消息集』に仏天の御計らいなりとあると同じである。
先生が真宗大学の学監を辞してから後、京都に赴かれ、先生の後身とも申すべき稲葉先生と私と三人で、越中の或る人の請に任せて写真をとったことがあるが、其の時先生は、今日大谷の御廟に参詣し、又御門跡様にも御目にかかって来ました。もう私の仕事はこれで終へましたと静々と語られ、大浜へ帰られました。


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