清澤満之記念館
〜清沢満之の生涯〜  

前期(誕生〜学生時代)

                    

清澤満之は、文久3(1863)年に尾張藩士族徳永永則、タキの子として名古屋の黒門町に生まれた。
貧しい生活を送りながらも、学問がよく出来、父の薦めもあって医者を目指したこともあった。その後、得度を受け、東本願寺の育英教校(いくえいきょうこう)に入る。さらに東京大学では仏教、西洋哲学を学び、その後の満之の思想、信念の基礎が形作られた。

中期(教師時代〜発病・真理への目覚め)

       

京都府尋常中学の校長として赴任。またこの時、三河大浜・西方寺の清澤やすと結婚する。そしてこの頃から東本願寺における宗風(宗門の風紀)に疑問を抱き、禁欲生活を実行する。この生活実践の中、『歎異抄』等の浄土真宗の仮名聖教に親しんだ。母タキの死を機に厳しさを増す禁欲生活は、肺結核の発病を引き起こした。教団の改革運動にも取り組んでいた満之は、その一切を友人に任せて兵庫県の垂水に転地療養する。改革運動は結局失敗に終わると、京都を引き払い、家族を引き連れて西方寺に入る。そこでの人間関係に苦しむ中、読み進める経典等の言葉に触れることから、宗教的信念に目覚めることとなる。臘扇(ろうせん・臘月<12月>の扇で、要らぬものの意)はこの時の満之における目覚めの言葉である。

後期(精神主義〜臨終)

            

真宗大学の東京移転を機に東京に居を移した満之は、雑誌『精神界』を通して「精神主義」を唱える。また同時に満之の元に集まった弟子との、浩々洞(こうこうどう)での共同生活は、近代における僧伽(サンガ)の意味を持っていた。真宗大学での学生によるストライキを機に西方寺に帰る。「他力の救済」、「我が信念」などの文章を残し、明治36(1903)年6月6日に没する。満之没後は、この日を臘扇忌として毎年全国で法会が営まれている。

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